価値観と思いやり。

Inspired by 今日の「おまい自分が何言ってるかわかってんのか」リスト・きっこ編

さいきん炎上していた(?)きっこ氏の発言およびそれに対する反応には、そこはかとないすれ違いを感じて仕方がない。そのすれ違いの原因は何か?炎上した原因は何か?ということを考え、ようやくすれ違いの構造を理解するに至った。個人的には、やはりきっこ氏の主張は間違っていると思うので、今日は何がいけないかについて論じてみようと思う。

まずは問題となった発言の引用。

その1

宮崎県の口蹄疫で牛や豚が殺処分されてる問題だけど、もともと人間が食べるために牛や豚を育て、肉の美味しくなる時期に屠殺場で殺し続けてきたことは何とも思ってない人たちが、「涙ながらに牛を殺した」とか「豚を殺した」という詭弁はやめて欲しい。

その2

殺される側の牛や豚にしてみたら、十分に太らされてから殺されようが、病気に感染して若いうちに殺されようが五十歩百歩。あたしが牛や豚なら、病気に感染して若いうちに殺されるほうが、人間に対して「ザマーミロ!」って思うよ。

個人的に、きっこ氏の「殺される側の牛や豚にしてみたら、十分に太らされてから殺されようが、病気に感染して若いうちに殺されようが五十歩百歩。」という点については、俺は120%賛同する。殺される動物にしてみれば、結果=殺されるという観点では同じである。動物の死をどのようにとらえるかは、まさにその人の主観だ。牛からしてみれば「人間に美味しく食べて貰いたい」などとは微塵も思っていないだろう。少なくとも動物である以上、家畜にも「死にたくない」という本能はある。どのような死に方であれ結果は死=無念なのである。

ただし、それと同様に

あたしが牛や豚なら、病気に感染して若いうちに殺されるほうが、人間に対して「ザマーミロ!」って思うよ。

という風な感情を牛や豚が抱くこともあり得ない。牛や豚はそのような感情は持ち合わせておらず、「ザマーミロ!」などという感情は人間が勝手にその対象に当てはめているだけに過ぎないのである。

人間は勝手な生き物であり、たびたびこのような思い込みをしてしまう。動物を擬人化して、「同じどうぶつだから自分と同じように考えているに違いない」と。動物の種が異なれば身体の構造も違うし、習性や食性も異なるので、動物と人間が同じ感情を持つことはない。この点について、「すイエんサー!」で衝撃的な一コマがあったので紹介しよう。


参照URL: http://ameblo.jp/fullscratch/entry-10304915723.html

?猫はなんで甘え上手なの〜??

(snip)

(答え)
人間は猫がどう思ってるかとは関係なく猫を
みただけで甘えてくるに違いないと思い込む生き物。
・・・思い込み。という ( ̄□ ̄;)アァ〜

ktkr。猫好きの人にとっては身も蓋もない回答だろう。こんなことを言われると怒り出す人もいるかも知れない。しかし、ねこが甘えてくると思うのは、人間の思い込みなのである。

話が逸れたので本題に戻ろう。以下は、きっこ氏に対する@abiuduki 氏の反応である。

人に食べて貰う為に屠殺するのと病気の為に殺処分することの違いがわかりませんか。 RT @kikko_no_blog いったいどこが侮辱なのですか?今まで数え切れないほどの牛や豚を殺してきた人たちが、こんな時だけ殺すことを「かわいそう」だなんて、こんな詭弁は前代未聞ではありませんか

「人に食べて貰う為に屠殺するのと病気の為に殺処分することの違い」は例えばこんなシナリオだろう。

屠殺するというのは自分の感情を殺さなければいけない大変な仕事だと思う。「人が食べるから」と思えばこそ、その大変な仕事を全うすることができる。なのに今回はただ単に殺して埋めなければいけない。だから良心の呵責に耐えられない。

違いはある。大いにある。

おそらくきっこ氏は違いが分かっていない。というか分かろうとしていない。この問いに対するきっこ氏の回答はこうだ。

@abiuduki 人間の側から見ればお金の違いがありますが、人間の都合で殺される動物の側から見たら同じことです。

確かに家畜にとっては結果=死は同じかもしれない。しかし、家畜を死に至らしめる人間の感情は、大いに違う。その点に目を向けずして円滑な対話はあり得ない。

家畜を殺す人間の感情なんてどうでもいい?というなら、それは身勝手な主張である。感情は大事だ。そもそもきっこ氏が、

「涙ながらに牛を殺した」とか「豚を殺した」という詭弁はやめて欲しい。

と思うのはきっこ氏の感情ではないのか。他者の感情を無視して自分の感情を押しつけるのは身勝手というものではないか。

きっこ氏にはもうひとつ不可思議な主張がある。

私は「自分の手で殺せる生き物」しか食べないことにしています。釣った魚は自分で殺せるから食べます。でも猫や犬を殺せないように牛や豚や鶏も殺せないので食べません。「命を食べる」ということは「命を奪う」という現場にまで自分が責任を持つことだと思っています。

魚はOKで猫や犬、牛、豚、ニワトリがNGなのはなぜか?魚には知能がないとでもいいたいのだろうか?尊い魚の命を奪って平気なのは何故か?きっこ氏は「自分の手で殺せるか否か」というモノサシで区別していると主張しているが、それは主観ではないのか?魚がOKで家畜がNGということに対する客観性はない。客観性がないにも関わらず、他者が肉を食べたり、家畜を殺したりすることについてとやかくいうのは、筋違いというものである。魚を食っておきながら、肉を食う人達を批判する資格はない。

それに魚だって大切に育てられる。養殖で。従って、

@Akatanka わずかでも「情」というものを持ち合わせていたなら、大切に育てた命を殺して現金に換えるなどという残酷な生業などできるはずがないからです。

というのは養殖業者にも言うべきだろう。

このような自分勝手な理論を、現場で畜産に関わっている人にぶちまければ炎上して当然であると言える。自分がこう思うから・・・だから他者の存在や価値観を否定する。それは、人々がうまくやっていく上で、絶対に避けるべき行為であろう。

最後に少し余談であるが、俺は肉を食う。自分の手を汚さずに殺され、切り身になった肉を買ってきて食する。息子も肉が大好きである。生命を尊び、有り難く頂戴している。肉を安価に提供してくれる畜産業者の人には感謝している。なのでこのようないわれのない批判にめげることなく頑張って頂きたい。殺処分についても、他の多くの家畜の命を守る大切な行為であるから、誇りを持って臨んで頂きたいと思う。口蹄疫の拡大が収まることを願うばかりである。